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撮影:中谷利明

シアター・マテリアルとは何か
​山﨑健太

『シアター・マテリアル』はコロナ禍において劇場が使用できない/劇場を訪れることができない状況に応答するかたちで生まれてきた作品あるいはプロジェクトである、とひとまずは言うことができる。

概要は以下の通り。応募者の中から抽選で選ばれた10名のもとに、京都の劇場THEATRE E9 KYOTOの備品である箱馬(舞台や客席の設営に使用される木製の木箱)がそれぞれ1つずつ送り届けられる。箱馬を受け取った参加者はそれを3週間のあいだ自宅で預かり、そして返送する。預かり期間の様子は参加者それぞれによるテキストと写真によって記録され、アーカイブとして公開される。

ここで「参加者」とひとまず名指した人々はこのプロジェクトにおいて限定10名の「観客」であると同時に、参加者によるテキストと写真がアーカイブとしてプロジェクトの一部に組み込まれているという点において「作り手」側の役割も担っている。このレビューもまた、アーカイブの一部として執筆を依頼されたものであるという点においては「参加者」の書いたそれと同様だが、私自身は(応募はしたものの抽選に外れたので)箱馬を預かっておらず、プロジェクト全体の外側の、つまり箱馬を預かっていない大多数の「観客」と同じ立場からこのレビューは書かれている。

観客が劇場に足を運ぶことが困難な状況で、観客の存在を前提とした「上演」を成立させるにはどうすればよいか。『シアター・マテリアル』の二つの位相はこの問いに対する二つの異なる答えを示している。一つの答えは「劇場」を「観客」のもとへと運ぶこと。もう一つの答えは「上演」を間接的に観客へと届けること。

劇場が使用できない/劇場を訪れることができない状況で発表された演劇の作り手による作品のほとんどはこのどちらかに分類される。たとえば無観客上演の映像配信は後者だ。タイトルの『シアター・マテリアル』は劇場の、あるいは演劇の素材を意味する。観客は手元の素材で劇場/演劇を組み立てる。そう考えれば前者と後者の違いはほとんどないのかもしれない。箱馬の散る範囲すべてが劇場なのだと考えてみること。視聴覚情報の届く範囲すべてが劇場なのだと考えてみること。劇場の範囲は拡張され、観客は自宅にいながらにして(つまり「密」になることなく!)劇場/演劇に巻き込まれる。

これまでに私が観た福井裕孝の作品はそのすべてが何らかの意味で相互に干渉する行為者と「もの」、それらが置かれた空間との関係を、そしてそれらを観る観客の知覚の変容を扱っていた。たとえば『マルチルーム』(2019)は(おそらく)公共施設の多目的室を舞台に「7つの異なる部屋の状況を10分ずつ順に上演する」作品。多目的室はその名の通り様々な目的に使用され、使用者の目的によってその姿を様々に変える。それは言い換えれば、多目的室は様々に使われることによって「多目的室」たらしめられるということだ。実体のない多目的室は「7つの異なる部屋の状況」が「順に上演」されることによって舞台上に「出現」する。ここでの多目的室のあり方が劇場のそれと重なっていることは明らかだろう。劇場は様々な演劇を上演するための場所であり、上演される演劇によって様々に姿を変えるが、同時に、様々な演劇が上演されることによって劇場は劇場たらしめられているのだ。言わば現象学的存在としての劇場。ここでの問題意識は『シアター・マテリアル』にもつながっている。

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マルチルーム(2019​小劇場楽園

​撮影:横田敦史

もう一つの補助線として『インテリア』の再演版(2020)にも触れておきたい。『インテリア』(再演版)の観客は劇場に私物を一つ持参し、開演前にそれを舞台上に配置することになっていた。掲げられていたキャッチコピーは「ものと来て、ものと観て、ものと帰る」。観客の私物を上演空間に送り込む『インテリア』(再演版)の試みが、箱馬という劇場の備品を「観客」の私的空間に送り込む『シアター・マテリアル』のそれと対をなしていることは明らかだろう。日本においても新型コロナウイルスの影響が現れはじめた20203月の京都公演においては、『シアター・マテリアル』と同じくヤマト運輸の宅配便サービスを利用して、観客自身は劇場に足を運ばずに「もの」だけを劇場に送るという選択肢も用意されていた。そこだけに着目すればほぼ『シアター・マテリアル』を裏返したものだと言ってよい。実際には『インテリア』が先に上演されているので『シアター・マテリアル』こそが『インテリア』の「裏返し」なのであり、そう考えると『シアター・マテリアル』は劇場自体を「裏返す」試みなのだと言うこともできるだろう。およそ世界のすべてを内包可能な劇場という場所を裏返すこと。

しかし、観客による私物の持ち込みは実のところ再演にあたって追加された付加的な要素であり、『インテリア』という作品のそもそもの核ではない。『インテリア』では出演者によって一人暮らしの自室と思われる空間でのふるまいが舞台上で繰り返し再現される。何もない空間の床には出演者の私物と思しきいくつかのアイテムが置かれているのみ。それらのアイテムと出演者の行為が舞台上に/想像のなかに出演者の部屋を立ち上げていく。出演者の行為によって移動していく「もの」とその配置が出演者の行為に再帰的に干渉し、繰り返しの中で生じていくズレが演劇的な効果をあげる。

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インテリア(2020SCOOL

​撮影:渡邉時生

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インテリア(2020THEATRE E9 KYOTO

​撮影:中谷利明

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インテリア(2018trace

出演者が一人だった初演版では、たとえば一回目の「再現」の痕跡として舞台上に残されたものが二回目の「再現」においてはそこにあるべきでない異物となる、という仕方で「もの」が出演者の行為と鑑賞者の知覚に干渉するところにこの作品の面白さがあった。再演版では出演者が複数となり、複数の異なるはずの部屋が重なりあいながら存在しているかのような空間が舞台上に出現していた。舞台上にはある出演者の私物と別の出演者の私物、そして観客の私物とが混在し、自室でのふるまいを再現をする出演者の行為はしばしばそれらの「もの」によって妨げられる。そのとき、出演者の行為によって舞台上に演劇的に立ち上がられつつあった想像上の出演者の部屋の輪郭は揺らぐことになる。いや、観客の立場からすれば舞台上に脈絡なく散らばる無数の「もの」の並びはそもそも無意味なものでしかなく、出演者の行為によって辛うじて部屋の輪郭が見出されると言った方が正確かもしれない。

ところで、舞台上に持ち込まれた観客の私物は、出演者にとっての異物であると同時に、しかし異なる意味において観客にとっても異物である。舞台上に並ぶ等しく無意味な「もの」の中で、自身が持ち込んだ「もの」だけが唯一その観客にとって特別なものだからだ。このことは観客の鑑賞体験に大きな影響を及ぼす。多くの観客は観劇中、自身が持ち込んだ「もの」が舞台上でどのように扱われるかを特に注意して観ていたのではないだろうか。私が持ち込んだノートパソコンは出演者によってあるとき床に置かれ、そして危うく踏まれるところだった。演劇の鑑賞体験というのはそもそも同じ公演でも観た回や座った席によって固有のものであり観客個人個人で異なるものだが、観客の私物の持ち込みという要素は観劇の私的体験としての性格をより強めることになる。

『シアター・マテリアル』の参加者の体験もそれぞれに異なることは言うまでもない。何せそれは参加者の自宅で起きるのだ。『インテリア』(再演版)において観客の胸の裡に秘められていた私的体験は、『シアター・マテリアル』においてはテキストと写真という形でその一部が開示され、そのバリエーションの総体がプロジェクトを構成する。

そういえば、参加者のもとに送られる箱馬の内部にはあらかじめ一つずつ異なる「おまけ」が仕込まれていたらしい。無個性な10の箱馬に内に忍ばされたささやかな、しかしそれぞれに異なる「おまけ」は箱馬の外でやがて生じる体験の私的性格を先取りしている。黒く塗られた木箱はブラックボックスたる劇場と入れ子構造をなすミニチュアだ。外側のブラックボックスは輸送用の黒い段ボール箱へと置換され、密閉された二重の箱が参加者のもとに送り届けられる。あるいは、劇場と箱馬、大小二つのブラックボックスの壁面の間に置かれる空間こそを劇場と呼ぶべきか。ならば、外側のブラックボックスが開かれるそのとき、参加者の自室は劇場と呼ぶべき空間となるだろう。

参加者によるテキストを確認しておこう。箱馬を自宅で預かっていた3週間の記録というテキストの性質上、参加者の自宅やそこでの生活の描写は程度の差こそあれすべてのテキストに含まれている。箱馬という異物の存在のみならず、見慣れた自宅や普段の生活を改めて描写しなければならないという要請によっても参加者の自宅とそこでの生活は新たな視線に晒されることになったわけだ。それを読む私は、自分ならば自宅のどこに置くだろうと考える。私の家には届かなかった箱馬は、しかしそのようにして私の視線を少しだけ新たにする。

では、参加者それぞれの自宅で箱馬はどのように扱われたのか。箱馬にほとんど何の役割も与えずに3週間のあいだ放置し続けた参加者もいた一方で、多くの参加者はそれぞれの自宅で箱馬に何らかの役割を与えようと試みたようだ。与えられた役割は鍵置き、椅子、枕など。箱馬は参加者それぞれの自宅で様々な役割を演じたのだ(役者のように)、と言ってみることもできるだろうが、単なる黒い箱に可能な役割は限られていて、おおよそ何かを載せる台として使用されている。本来あるべき劇場という場所でなくとも、箱馬にできることは「高さをつくったり、空間を埋めたり」するくらいしかないのかもしれない。

福井はそのような箱馬は「それ単体が自立したオブジェクトとして私たちの前に現れてくることはありません」と言う。そもそも、演劇の作り手ならば箱馬を知らないということはないだろうが、観客にとって箱馬はそれほど馴染み深いものではない。私自身、箱馬というものを認識するようになったのは演劇を観るようになってからかなり長い時間が経ってからのことだったと記憶している。箱馬がどんなものかを知らずに参加者となった西谷真理子は「私が収まることのできる大きさの箱馬(ほとんど期待値はトロイの木馬!)が届くことを秘かに期待していた」とまで書いている。観客にとって、演劇がどのように作られているかは自明なことではない。

いや、観客どころか作り手にとってさえそれは自明ではないのだ。コロナ禍において劇場や稽古場を利用できない状況に置かれ、それでも作り続けることを選択した演劇の作り手の多くは、「演劇とは何か」という問いに改めて向き合うことになっただろう。しかしその問いに正解はない。『シアター・マテリアル』は箱馬という劇場/演劇の素材を通して、演劇が何によってできていてどのように作られているのかを問い直す試みなのだ。自明だと思われていた素材は改めて検討され、ときに異なるコンテクストに組み込まれ、新たな意味を吹き込まれる。あるいはそれを劇場/演劇のメンテナンス作業と呼ぶこともできるかもしれない。

ところで、参加者によるテキストは今のところ9本しか公開されていない。もう1本あるはずのテキストがいかなる理由で公開されていないのかを私は知らないが、福井のテキストによれば10の箱馬はそのすべてが返却されているようだ。ならば、もうひとつの箱馬はいかなる体験をしたのだろうか。何人かの参加者は、箱馬を返送したあとに生じた空白について記していた。そこに(い)ないものを想像することもまた、演劇の一つの機能であり素材であるだろう。

劇場から送り出されるときには無個性だった黒い段ボール箱は、返送にあたって参加者ごとに異なる仕方で梱包し直され、それらはもはや無個性ではなくなっている。そこから取り出された箱馬は無個性なままだが、福井は「発送時とは違って、箱馬一つ一つはどこか違った雰囲気を帯びているように感じた。箱馬の中の空洞がそれぞれ別の何かによって埋められ、箱馬の持っていた雰囲気が内側から書き換えられているような感じがした」と記している。箱馬自体にもちろん変化はない。だが、福井や参加者だけでなく、これを記している私にも、これを読んでいるあなたにも変化はたしかに訪れている。そうしてシアター・マテリアルは無事に送り届けられた。どのように使うかは任されている。

プロフィール〉

山﨑健太(やまざき・けんた)

1983年生まれ。演劇研究・批評。演劇批評誌『紙背』編集長。WEBマガジンartscapeで短評連載中。

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